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琉球王朝時代に最後まで王朝に抵抗し戦いを挑んだ阿麻和利(あまわり)の居城として有名な「勝連城」。その「勝連城跡」の魅力に迫ります。
1.勝連城跡(かつれんじょうあと)とは?
勝連城は、沖縄の城の中でも最も古く、13世紀頃に築城されたとされています。沖縄本島中部、東部海岸の勝連半島にあり高低差のある丘陵地をうまく利用した城造りが特徴です。城主は、代々按司【あじ(地域の首長)】として治めてきましたが、10代目の城主、阿麻和利(あまわり)の時が最も繁栄していたとされています。
勝連城は、勝連半島沿いに東西に細長く延びた形状のため、別名「進貢船のグスク」とも呼ばれています。東の曲輪【くるわ(城郭内の区画のこと)】が少し高く四の曲輪が平坦で三の曲輪から二の曲輪、一の曲輪と段状になっていることでその名が付いたとされます。また、断崖の地形を利用した城壁は優美な曲線を描いています。当時の居城としてはとても立派なもののようでした。現在は、城壁跡しか残っていませんが、全貌を明らかにしようと発掘調査が進行中です。ここ「勝連城跡」は、2000年(平成12)12月に「首里城跡」などと共に【琉球王国のグスク及び関連遺産群】として世界遺産に登録されました。
2.勝連城跡の魅力
一の曲輪の標高は約98メートルですが、周辺に視界を遮る程の高いものがないため360°の大パノラマが広がるオーシャンビューは絶景です。
北側には金武(きん)湾から山原(やんばる)、南側は中城(なかぐすく)湾から知念半島までを見渡すことができ、エメラルドグリーンの海に挟まれた海上の城塞のように思え眼前に広がる眺めは、目を瞠るものがあります。
勝連城は、琉球石灰岩の切り石を使用して築城されているため丘陵の地形を巧みに活かせることができました。特に現在見ることが出来る断崖絶壁の城壁は緩やかな曲線を描いており、空の青さと、大地の緑、海のエメラルドグリーンとの狭間に美しい景観が広がります。
3.勝連城の歴史
13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたとされている「勝連城」勝連城跡が現在のような姿になるには、およそ500年以上前から続く、琉球の歴史の蓄積があります。
ここでは、10代城主であった阿麻和利(あまわり)を中心人物とし、「勝連城」にまつわる人物の紹介を通して、「勝連城」の歴史についてお伝えしたいと思います^^
阿麻和利(あまわり)
10代城主であった阿麻和利(あまわり)は、肝高【ちむたき(英雄のこと)】として人々に称賛された名君とされ、現在の勝連城の礎を築いたとされています。
阿痲和利は、近海の地の利から特に中国大陸からの中継貿易の拠点として発展させ、膨大な利益を得ることで琉球王朝に匹敵するほどの経済力や軍事力を持つまでに勢力を拡大して行きました。
阿麻和利の野望は留まることなくついには琉球王国首里城に攻め入ろうとしますが、事前に計画が漏れ首里軍に攻め入られ、勝連城にて勝連軍対首里軍の籠城戦の末滅ぼされてしまいます。そんな琉球王朝時代のロマンを今に残すのが勝連城跡です。
護佐丸(ごさまる)
恩納村出身の15世紀の琉球王国(中山)の按司(琉球諸島に存在した琉球王国の称号および位階の一つで、王子の次にあたる)「護佐丸(ごさまる)」大和名や唐名も残されてはいますが、何れも後世に付けられたもので、出生年もはっきりわかっていない人物です。1416年尚巴志の北山討伐後、中城城にて阿麻和利や他の中山の按司を見張る役目を負いますが、1458年阿麻和利に攻められ、自ら命を絶ちます。一方、名築城家としても知られ、世界遺産の座喜味城跡や中城城跡を現在のかたちにした人物でもあります。
百十踏揚(ももとふみあがり)
6代国王尚泰久の娘として生まれ、政略結婚で阿麻和利に嫁ぐことになる琉球王朝の王女「百十踏揚(ももとふみあがり)」しかし、阿麻和利自身が王府に対し謀叛を企てていることを知り、首里を攻める準備を進めたため、踏揚は従臣の鬼大城とともに夫の許を離れ、首里に逃げることになります。阿麻和利が鬼大城率いる王府軍に滅ぼされた後は、鬼大城の妻となりますが、その鬼大城さえも尚円王のクーデターの際によりうち滅ぼされるという波乱の人生を送ります。最後は玉城でひっそりと余生を送り、やがて若くしてその生涯を閉じるのです。
察度(さっと)
琉球の国王の一人「察度(さっと)」奥間大親(おくまうふや)と天女の間に生まれたと伝えられています。貧しい家の生まれでしたが、誰とも結婚しようとしなかった勝連按司の娘に見初められたことにより家運を手にします。貧乏人の「察度」でしたが、所有していた畑には実は金塊がごろごろと転がっており、その価値を勝連按司の娘を教え、金塊で得たお金を農民たちのために農具に必要な鉄を購入するために使ったという逸話が残っています。
4.見どころ・オススメポイント
沖縄では琉球時代から続く崇拝文化が根強く残っています。ここ、勝連城跡にも当時のままの「御嶽(うたき)」が散在しています。