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通称「雀寺」は平安時代直前に桓武天皇の勅願を受た、賢憬により京都三条の地に創建され、藤原家の勧学院としても利用されました。清少納言の恋人でもあった三十六歌仙の一人「藤原実方」の霊を慰める雀塚があり悲恋の果てに命を落とした彼の霊が慰められているのです。1.「更雀寺」とは?
藤原家の学校「勧学院」として元々は創建されました。陸奥に左遷され、不遇の死を遂げた藤原実方の霊が、 雀となり還ってきた事から更雀寺として現代にいたります。
勧学院住職の觀智上人の夢枕に、藤原実方が立ち「私の名は藤原実方である。わが身は陸奥で没したが、魂は雀となり都に舞戻ってきた。私のためにお経をあげてもらいたい」と言ったそうです。
2. どんな魅力が?
藤原実方が陸奥に左遷されてからと言うもの、御所の清涼殿に度々現れては米を食べる雀が現れるようになり勧学院住職の觀智上人の夢枕にも現られるようになった事で、勧学院は更雀寺と改称したのですがこの境内に実際に倒れた雀がいたそうです。
そのコトが更に真実味を増し「藤原実方はよほど京に帰りたかったに違ない」と死んだ雀に雀塚が作られいまでも雀供養が行われているのです。
3.見どころ・お勧めポイント
雀塚
藤原実方が雀となりこの更雀寺にやってきたことから、この雀塚が建てられました。藤原実方は清少納言の恋人でもあり、文武にたけた人物ではあったのですがある日「藤原行成」と口論になり彼の冠を打ち落としてしまいます。それがあろうことか一条天皇の御前であった為に京を追放されることになってしまいました。
陸奥も地で京を思いながら過ごしていたそうすが、落馬により命を落とし魂は雀になって還ったそうです。境内には陶器で作られた雀の姿がみられるんですよ。
桶取地蔵
壬生狂言の重要な曲目「桶取」のモデルになった白拍子・照子は生まれながら左手の指が三本しかありませんでした。来世は障害のない人間に生まれたいと、この寺で毎日桶に水を汲んではお供えし祈願を続けます。そんな照子が毎日拝んだのがこの地蔵尊で、いまでは桶取り地蔵と呼ばれるようになったとか。そんな照子の願いは、きっと叶えられたと信じたい。
藤原実方
風流な才能を持った人物でもあり宮廷生活の交友や恋歌、贈答歌などを数多く残している人物です。才女清少納言の恋人でもあり、かなりのイケメンだったか!宮中では女人が「実方様がお通リになると良い匂い
がする」とキャーキャー騒いでいたそうです。
清少納言だけでなく小大君らとも交際があったとされ、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルではないかとも・・・かなりのプレイボーイだったのかもしれないですね。石清水臨時祭の舞人を務めたことも帝の信頼も厚かった為なおさら悲しいことでもあったとは思います。
4.口コミ
【更雀寺】 名高い歌人である藤原実方は、藤原行成と殿上で口論になり、行成の冠を奪って投げたことがきっかけで陸奥守に左遷され、陸奥で没した。実方の霊は雀となり内裏の清涼殿に雀が現れたという。これが妖怪「内裏雀」である。更雀寺は実方の霊を鎮めるために建立された。 #京都妖怪観光
— 京都妖怪観光案内 (@kyoto_youkai) 2015, 3月 19
文久3年2月23日(1863年4月10日)、 浪士組が入京、壬生村で分宿する。 更雀寺に根岸友山組、 新徳寺に取締役、 八木源之丞宅に近藤勇組など。 pic.twitter.com/Q2afGENiMp
— 新選組の日々(旧暦ver.) (@ysyf_1125) 2015, 2月 23
chk:京都で慶喜の臣下となった渋沢栄一、最初の仕事は農兵の徴集、プチチェック。その後パリ万博に行く前に、フランスについて西周から学んでいる。西の私塾(更雀寺)には行っただろうか?明治以降、幕府サイドの二人が、それぞれ新政府の主要高官に属する点は、モアチェック。
— Y.Tsuyoshi (@ao2yo4) 2013, 3月 30
5.詳細
■ 基本情報
- ・名称: 更雀寺
- ・住所: 京都市左京区静市市原町738-1
- ・アクセス:比叡山電車 鞍馬寺京都精華台下車 徒歩3分
- ・営業時間: 通常非公開(雀塚はいつでも)
- ・定休日: 不定期
- ・電話番号: 075-781-2115
- ・料金: 無料
強い思いで雀となって還った藤原実方は日本の誇る歌人でもあり素晴らしい人物の一人。雀塚だけですが静かにここで手を合せていきたいですね。