戦後70年がたとうとしている今、社会全体に過去の戦争の記憶が薄れる空気が漂います。先人たちはあの時何を間違い、何を誓って戦後の平和を築いていったのか・・・・私たちはちゃんと正しく理解し、二度と同じ間違いを犯さないことを意識して社会と関わっているのでしょうか。この夏、「沖縄戦の縮図」とも言われる、伊江島の戦跡を訪ねる旅から、戦争と平和と今の暮らしがどうつながっているのかを考えてみるのもいいかもしれません。
いよいよ敗戦の色濃くなってきた中、ついに米軍が沖縄に上陸します。
米軍が最初に上陸し、激戦地となったのが、沖縄本島の西にある小さな島、
伊江島です。上陸から6日間の戦闘で、多くの日本人が戦士しました。
配備されていた軍の兵士のほとんどが戦士し、加えて共に戦わされた民間人、
及び、普通の農民・漁民たちまでもが、残虐な戦いに巻き込まれて亡くなりました。
犠牲となった兵士と民間人合わせて3500名が合祀されている記念碑が、芳魂之塔です。
毎年、激戦の最終日だった4月21日に、ここで平和祈願祭が行われています。
あまりにも悲惨なものだったからです。特に、この伊江島は、島の東部にある
城山以外は平坦な地形であったため、日米両軍の飛行場建設の適地となり、
そこを奪い合わんがために地獄の陸上戦が繰り広げられました。
物資も人もギリギリ行き詰っていた日本は、島から避難できなかった島民も
武器を持たされ戦わされ、軍人と同じ洞窟に逃げ込んでいた民間人が
玉砕につきあわされ、民間人自らの集団自決も相次ぎ、中には米軍に
捕まった民間人を日本兵が連行して斬殺する例もありました。
これらの傾向は、沖縄のその後の激戦時にも見られました。みんながみんな、
死ぬことが国のためになると信じて突き進んでしまうという、まさに
戦争の狂気の最たるものが露呈したのが沖縄戦でした。
伊江島に今も残り、戦争の惨禍と過ちを伝えるために、大事に保存されている
様々な戦跡と、鎮魂の思いを象徴するのが、芳魂之塔であると言えます。
さんが作った平和資料館です。「ヌチドゥタカラ」とは“命こそ宝”という沖縄の言葉です。
館内には、阿波根さんが伊江島でコツコツと集めてまわった
薬きょう、不発弾、模擬弾、軍事用パラシュート、有刺鉄線、戦争中の生活道具・・・
など、日米両軍が残していった、生々しいガラクタが、手に取れる位置に
むき出しで並べられています。
戦後基地問題に揺れ、苦しんできた沖縄の記録も多く展示されています。
阿波根さん亡き後も、志を継ぐ多くの人たちによって、資料館は今も
運営され、平和への訴えを社会へ届けるための活動を進めています。
終戦時、佐次田秀順さんと山口静雄さんの2人の日本兵は、敗戦したことを知らず、
昭和22年まで、米軍から隠れてガジュマルの樹の上で生活していました。
戦争の過酷さと、終戦後アメリカの領土となっていた沖縄で逞しく生き抜く人の
話を通して、戦争によって奪われてしまうものについて考えさせられます。
これまで、絵本や芝居や紙芝居になって語り継がれているこのお話の
ガジュマルの木は、今も立派に現存しており、近くまで見に行くことができます。
艦砲射撃に晒されました。ナパーム弾などの猛烈な破壊力の砲撃もあり、
1000軒あった民家のほぼすべてが焼けてしまいました。
が、唯一、コンクリートで頑丈な作りだった「公益質屋」だけは
なんとか焼け残りました。
戦闘の凄まじさを語り伝える資料として、今もそのままの形で
残されています。屋根と壁に大穴があき、炎に晒されたコンクリートの
状況も攻撃の激しさを語っています。
芳魂之塔とは
1945年4月、第二次世界大戦末期、太平洋戦線の敗退を余儀なくされ、いよいよ敗戦の色濃くなってきた中、ついに米軍が沖縄に上陸します。
米軍が最初に上陸し、激戦地となったのが、沖縄本島の西にある小さな島、
伊江島です。上陸から6日間の戦闘で、多くの日本人が戦士しました。
配備されていた軍の兵士のほとんどが戦士し、加えて共に戦わされた民間人、
及び、普通の農民・漁民たちまでもが、残虐な戦いに巻き込まれて亡くなりました。
犠牲となった兵士と民間人合わせて3500名が合祀されている記念碑が、芳魂之塔です。
毎年、激戦の最終日だった4月21日に、ここで平和祈願祭が行われています。
芳魂之塔が伝えているもの
沖縄戦がなぜ激戦地といわれるのか?それは、その戦い方と民間人の巻き込まれ方があまりにも悲惨なものだったからです。特に、この伊江島は、島の東部にある
城山以外は平坦な地形であったため、日米両軍の飛行場建設の適地となり、
そこを奪い合わんがために地獄の陸上戦が繰り広げられました。
物資も人もギリギリ行き詰っていた日本は、島から避難できなかった島民も
武器を持たされ戦わされ、軍人と同じ洞窟に逃げ込んでいた民間人が
玉砕につきあわされ、民間人自らの集団自決も相次ぎ、中には米軍に
捕まった民間人を日本兵が連行して斬殺する例もありました。
これらの傾向は、沖縄のその後の激戦時にも見られました。みんながみんな、
死ぬことが国のためになると信じて突き進んでしまうという、まさに
戦争の狂気の最たるものが露呈したのが沖縄戦でした。
伊江島に今も残り、戦争の惨禍と過ちを伝えるために、大事に保存されている
様々な戦跡と、鎮魂の思いを象徴するのが、芳魂之塔であると言えます。
芳魂之塔のある伊江島の鎮魂スポット
反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」
伊江島で平和運動に生涯身を投じてきた反戦地主の故・阿波根昌鴻[あはごんしょうこう]さんが作った平和資料館です。「ヌチドゥタカラ」とは“命こそ宝”という沖縄の言葉です。
館内には、阿波根さんが伊江島でコツコツと集めてまわった
薬きょう、不発弾、模擬弾、軍事用パラシュート、有刺鉄線、戦争中の生活道具・・・
など、日米両軍が残していった、生々しいガラクタが、手に取れる位置に
むき出しで並べられています。
戦後基地問題に揺れ、苦しんできた沖縄の記録も多く展示されています。
阿波根さん亡き後も、志を継ぐ多くの人たちによって、資料館は今も
運営され、平和への訴えを社会へ届けるための活動を進めています。
■ 基本情報
- ・名称: 反戦平和資料館 ヌチドゥタカラの家
- ・住所: 沖縄県国頭郡伊江村字東江前2300-4
- ・アクセス:本部町からカーフェリーで約30分「伊江港」より車で約5分
- ・開館時間:8:000 – 18:00(年中無休)
- ・電話番号:0980-49-3047
- ・料金:大人 300円、小中高校生 200円
- ・公式サイトURL:http://wabiai.holy.jp/
ニーバンガジュマル
沖縄の言葉の発音に合わせ「ニーバンガズィマール」と表記されることもあります。終戦時、佐次田秀順さんと山口静雄さんの2人の日本兵は、敗戦したことを知らず、
昭和22年まで、米軍から隠れてガジュマルの樹の上で生活していました。
戦争の過酷さと、終戦後アメリカの領土となっていた沖縄で逞しく生き抜く人の
話を通して、戦争によって奪われてしまうものについて考えさせられます。
これまで、絵本や芝居や紙芝居になって語り継がれているこのお話の
ガジュマルの木は、今も立派に現存しており、近くまで見に行くことができます。
■ 基本情報
- ・名称: ニーバンガズィマール
- ・住所: 沖縄県伊江村西江前194
- ・アクセス: 「伊江港」より徒歩15分
- ・沖縄県公式サイトURL: http://www.midorihana-okinawa.jp/?page_id=863
公益質屋跡
米軍が上陸してくる前、既に3月23日から3週間連続で、伊江島は、空爆と艦砲射撃に晒されました。ナパーム弾などの猛烈な破壊力の砲撃もあり、
1000軒あった民家のほぼすべてが焼けてしまいました。
が、唯一、コンクリートで頑丈な作りだった「公益質屋」だけは
なんとか焼け残りました。
戦闘の凄まじさを語り伝える資料として、今もそのままの形で
残されています。屋根と壁に大穴があき、炎に晒されたコンクリートの
状況も攻撃の激しさを語っています。
■ 基本情報
- ・名称:公益質屋跡
- ・住所:沖縄県国頭郡伊江村東江上75
- ・アクセス: 「伊江港」より車で5分
- ・電話番号: 0980-49-2906 (伊江村商工観光課)
- ・伊江村公式サイトURL: http://www.iejima.org/document/2015011000176/
芳魂之塔についての詳細
■ 基本情報
- ・名称:芳魂之塔
- ・住所:沖縄県伊江村西江前
- ・アクセス: 「伊江港」より車で5分
- ・問い合わせ電話番号:0980-49-2906
- ・伊江村公式サイトURL:http://www.iejima.org/document/2015011000220/