http://tekuteku-hm.at.webry.info/201303/article_1.html
ひめゆりの塔は沖縄の大事な観光スポットの1つです。修学旅行で訪れえたことがある人も多いのではないでしょうか?沖縄には、独特の文化と美しいビーチがあり、長きに渡って観光客を魅了し続けてきました。 しかし決して忘れてはいけない戦争の痛みを象徴した建造物も多数存在しています。戦争の悲惨さや平和であることの大切さと幸福を観光客に訴えかけています。悲しい出来事がおこらないよう、学習できる場所でもありますので、多くの人が訪れるようひめゆりの塔がどんな所なのか紹介します。1.ひめゆりの塔とは?
http://longway11.exblog.jp/m2009-12-01/
ひめゆりの塔とは、沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑のことです。太平洋戦争の末期、沖縄の人達は米軍の沖縄侵攻に際して日本軍に従事することになりました。 その際、軍が中心となって女子学徒隊に看護訓練を施します。 女子学徒隊は八つあり、その内沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師と生徒達で結成された「ひめゆり学徒隊」が塔の名前にちなんでいるのです。
女子生徒と教師、合わせて240名、うち教師が18名だったそうです。当時、ひめゆり学徒隊以外にも白梅学徒隊や、なごらん学徒隊など合わせて8つの学徒隊が存在していました。小説化や映像化に伴い「ひめゆりの塔」ばかりが有名になっていますが、彼女たち以外にも多くの女学生が戦争に巻き込まれたのです。
ひめゆり学徒隊が最後に訪れた場所は、旧陸軍第3外科壕跡でした。この壕にいたばかりに、彼女たちは悲惨な運命をたどることとなります。脱出する前に、アメリカ軍によって毒ガス弾が投げ込まれたからです。どんなに苦しい思いをしたのでしょう。慰霊碑にはそんな彼女らの名前が連なっています。
「ひめゆり」の由来
noriqnub
「ひめゆり学徒隊」の「ひめゆり」とは、併置校だった、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌「白百合」を組み合わせた言葉「姫百合」が由来しています。ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは戦後のことです。植物のひめゆりとはなんの関係もありません。「乙姫」と「白百合」両方から動員された生徒や教師たちを戦後から「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになったのです。この2つの校章と襟のバッチも「白百合」と「乙姫」だったそうです。戦時中は「姫百合」と漢字表記でした。
それにしても、当時学生だった彼女たちが、戦時中という時代に生まれたばかりに、時代の渦に巻き込まれ、戦争に動員され、そして戦争によって命を失くすということは、今では到底考えられません。このような事態が起こったのがつい70年前と考えると、深く戦争について考えさせられます。
2.ひめゆりの塔の見どころ
ひめゆりの塔の見どころをご紹介します。名前や場所を知っていても、ひめゆりの塔がどのような経緯で建てられたのかなどの詳細を知る人は少ないかもしれません。しかし、ここは日本の歴史上で悲惨な時代があったことを再認識できる貴重な場所でもあるのです。
ひめゆりの塔が建てられたのは、何のために、いつ建てられたものなのでしょうか。また、ひめゆりの塔に深く関係しているスポットとは?ひめゆりの塔の意味を知って、塔を訪れる際に今一度思い返してみましょう。
「ひめゆりの塔 」の建てられた時期
学徒の遺族らによって建立されたひめゆりの塔。終戦の翌年、1946年4月7日に除幕されました。「塔」とは言ってもその高さは数十センチメートルで、小さな石碑です。というのも終戦直後でもあり、物資の調達が困難であったこと、アメリカ軍統治下に建立されたという背景もあったからです。このひめゆりの塔は戦死した生徒の親たちによって壕が発見され、遺骨が集められて建てられた慰霊碑です。戦争では生死すら判断できない人が多く居ました。その中で比較的早い時期に建てられたひめゆりの塔はまだ救いようがあったのかもしれません。
戦争後すぐに建てられたひめゆりの塔。戦争が終結したのが1945年8月15日のことですから、1年もたたないうちに建てられたということが分かります。刻まれた名前には、ひとりひとりが悲惨な時代を生きていたのだという証を感じます。
もっとも早く建てられた塔のひとつ
もっとも早く建てられた塔のひとつですが、沖縄に点在する慰霊碑の中で最古の物ではありません。1949年、作家石野径一郎によってこの碑にまつわる逸話が小説化されたのを皮切りに戯曲化や映画化され、今も尚、戦争によってもたらされた沖縄の凄惨な出来事を象徴し続けています。もっとも早くに建てられただけでなく、映画化されたことで数ある戦跡の中でも日本で知られたのがこのひめゆりの塔です。遠い過去を身近なものとして受け止めることができる施設と言っても過言ではありません。
第二次世界大戦の戦争の傷跡が残る場所として、良く知られている広島の原爆慰霊碑でも建てられたのは1952年のことです。このことなどを考えると、ひめゆりの塔は戦争後すぐに建てられたということが良く分かると思います。沖縄だけみてもかなり早期に建てられた慰霊碑です。
伊原第三外科壕跡
塔と慰霊碑の間にある、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴する「伊原第三外科壕跡」。ガス弾を投下され多くの犠牲を出しました。ここに避難していたおよそ100名のうち80名余りが死亡しました。ひめゆり学徒もここで50名中42名がなくなっています。ひめゆり平和祈念資料館ではこの伊原第三外科壕のガマ(洞窟)のジオラマがありますので、合わせて見学することをおすすめします。
ひめゆり学徒隊最後の場所です。伊原第三外科壕跡周辺は人でにぎわっている場所で、つい70年前に多くの方が命を落とした場所とは想像し難い場所です。この壕で亡くなった生徒のほか、難を逃れた生徒たちも銃弾の中を逃げ、断崖絶壁にまで追い詰められ、多くが命を落としたと言います。
3.ひめゆり平和祈念資料館
https://ja.wikipedia.org/wiki/ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔に隣接するひめゆり平和祈念資料館では、さらなる沖縄戦の歴史を知ることができます。1989年6月23日に開館したこの博物館では、最も多くの犠牲者を出した第三外科豪を底から見上げた形の原寸大のジオラマや、「重傷患者二千余名自決の地」と刻まれている南風原陸軍病院壕の一部を再現した原寸大模型があります。
国内で戦争体験者が少なくなっている今、ひめゆり平和祈念資料館はとても重要な存在となっています。ここに展示されているものは戦争を経験した貴重な証言などを分かりやすく資料にしています。過去のことを知る良いきっかけになればいいですね。
館内には6つの展示室があります。
ひめゆりの塔を訪れただけでは、70年前の戦争の悲惨さや彼女らの苦しみはなかなか感じることが難しいでしょう。平和祈念資料館では、当時の資料が多く残されており、当時の彼女たちの軌跡をたどることができます。
6つの展示室
【第1展示室】~ひめゆりの青春http://www.tabirai.net/sightseeing/okinawa/column/0003692.aspx
青春を謳歌するはずだった、ごくごく平穏に送っていたはずの学生生活が戦争によって奪われていくことを思うと、胸が詰まる思いです。【第2展示室】~ひめゆりの戦場
240人のひめゆり学徒たちが看護要員として動員された沖縄陸軍病院の様子やそこでどのような活動をしていたのか、病院壕(沖縄陸軍病院)を再現したジオラマとともに紹介、展示されています。
【第3展示室】~解散命令と死の彷徨
1945年6月18日夜、突然出された解散命令。ここでは、解散命令後のわずか数日で100人余りの犠牲者を出した悲惨な状況が、生存者による証言映像や米軍が記録したフィルムを通して伝えられています。
【第4展示室】~鎮魂
ここは沖縄戦で命を落としたひめゆり学徒たちの鎮魂の空間。壁面にかけられた犠牲者227人の遺影。学徒たちの生きた証です。
生存者の証言本(手記)を読むことができるほか、解散命令後、米軍によって投げ込まれたガス弾攻撃により、多くの犠牲者を出したひめゆりの塔のガマ(伊原第三外科壕)を、実物大で再現したジオラマを見ることができます。
【第5展示室】~回想
ここからは第4展示室とは異なり、窓からは中庭の花々が見渡せる明るい空間です。今までの展示を改装し、感想を書くために設けられたお部屋です。この中庭は、犠牲になった生徒や教師達の御霊を鎮める意味合いがあると言われています。
二度とあやまちを繰り返さないために、咲き誇る花々や美しい蒼い海を再び戦火で焼き尽くさないように、後世に生きる世界中の人々が痛ましい戦争の悲劇を忘れてはならないということを教えてくれる場所です。
【第6展示室】~平和への広場
ここは平和について語り合える場。次世代の人に、未来に平和をつなぐ拠点になればとの願いで2004年に増設されました。
戦争の悲惨さ、愚かさ、命の大切さを後世に伝え残したい、という想いが詰まった6つの資料館。時間がない、という方は第2、第3、第4展示室だけでも必ず見て欲しいです。その3つを見れば戦争の悲惨さが分かります。
この6つの展示は、戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、これからの平和についてしっかりと考えてほしいという思いが込められています。戦争によって苦しい思いをする人がいないように、戦争と平和について考えるために、ぜひ1から6まで巡ってみましょう。
多目的ホール
6つの展示室のほか、100インチの映像スクリーンを備えた多目的ホールもあります。元ひめゆり学徒による講話や、証言ビデオの上映を行っています。この多目的ホールで第二次世界大戦によって多くの命が失われたこと、命の尊さ、戦争の悲惨さを学ぶこともできます。知らないことよりも知ろうとしないことがいけません。戦争を知らない世代も少しでも戦争を知ることが未来の平和に繋がるのです。
悲惨な運命をたどったひめゆり学徒隊でしたが、奇跡的に渦中から生還した方もいらっしゃいました。この多目的ホールは、そんな戦争を経験した方の貴重な話が聞ける場所。経験者の声を聴くからこそ、現実味が増し、深く考える機会となるはずです。
かつては語り部の方々の証言を聞くことができましが現在は…
かつては生き残った女性の証言を聞くことができました。ですが現在、語り部の方々の高齢化により2004年4月以降は証言映像の上映に切り替えられました。それでもなお、戦争の悲惨さや過酷さを色あせることなく伝え続けています。語り部の方々は戦争を体験した人がほとんどです。子どものころは戦争ばかりだったのに、語り部として悲惨な体験を伝えられたのは30年にも満たない、と語っていました。平和が続く今だからこそ過去の悲惨さを語り継ぐことはとても大切なのです。
今は遠い過去に話になりつつありますが、戦争によって深く傷ついた方は多くいます。そんな心の傷を持ちながら戦争のことを話すというのは大変苦しいことです。それでも未来のために語ってくれた語り部の方々。例え映像であっても思うことはあるのではないでしょうか。
■ 基本情報
- ・名称: ひめゆり平和祈念資料館
- ・住所: 901-0344 沖縄県糸満市字伊原671-1
- ・アクセス: 那覇空港から車で30分(国道331号線を南下し
- 「平和祈念公園」の道案内に従って道なりに進む)
- バス「那覇バスターミナル」~「糸満バスターミナル」(約30分~40分)
- ~「玉泉洞」(約15分)~「ひめゆりの塔前」下車すぐ
- ※本数少ないので注意
- ・営業時間: 9:00~17:30(入館は17時まで)
- ・定休日: 年中無休・電話番号: 098-997-2100
- ・料金: 大人310円 / 高校生210円 / 小・中学生110円 ※ひめゆりの塔は無料です
- ・所要時間: 約30分~1時間
- ・オススメの時期: 夏休み・6月23日(慰霊の日)
- ・公式サイトURL: http://www.himeyuri.or.jp/JP/intro.html
4.ひめゆり学徒をテーマにした映像作品
http://blog.livedoor.jp/happajuku/archives/51391478.html
ここからはひめゆりの塔をテーマとした作品の数々についてふれたいと思います。映画「ひめゆりの塔」(2作品)
①1953年の作品。今井正監督。原作は石野径一郎の小説「ひめゆりの塔」。1982年にリメイクされました。
②1995年の作品。原作は仲宗根政善「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」、1953年・1982年作品の水木
洋子脚本。
映画「あゝひめゆりの塔」
1968年の作品。舛田利雄監督。原作は石野径一郎の小説「ひめゆりの塔」。ドキュメンタリー「ひめゆり」
2007年公開。「ひめゆり学徒隊」の生存者たち22人の証言を基にした、2時間10分の、ノンフィクションドキュメンタリー作品です。監督は柴田昌平氏。1994年から13年間かけて撮影、その収録時間は100時間を越えています。もっとも真実に迫った映像作品ともいえます。5.ひめゆりをテーマにした音楽
島唄(作詞・作曲 宮沢和史)
90年代前半を代表する、THE BOOMのヒット曲「島唄」の本当の意味を知らない人も多いのではないでしょうか。宮沢さんが「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れたときに出会った「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに聴いてもらいたくて作った、鎮魂が込められた、深い曲なのです。ひめゆり部隊を歌った名曲 合唱曲「ひめゆりの塔」
6.周辺案内
ひめゆり学徒散華の碑
http://blogs.yahoo.co.jp/sohkawa0405/5049476.html
ひめゆりの塔から車で15分、本島南端に位置する荒崎海岸は、逃げ場を失った学徒たちが追い詰められ、自決をした地。そこに「ひめゆり散華の跡」碑が建っています。■ 基本情報
- ・名称: ひめゆり学徒散華の碑
- ・住所: 沖縄県糸満市字束里
- ・アクセス:字上里にある「糸豊環境美化センター」正門の脇の農道を荒崎海岸への案内標識
- に従い、海に向かう。
- ・電話番号: 098-840-8111(糸満市役所)
- ・参考サイトURL: http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022300247/(糸満市公式HP)
平和祈念公園
沖縄戦終焉の地・摩文仁の地にある県営の公園。ひめゆりの塔からは車で約5分。世界恒久平和を願い、敵味方の区別なく沖縄戦で亡くなった方々の氏名を刻んだ祈念碑は「平和の礎」、「平和の火」、六角形の白い塔「沖縄平和祈念堂」など見どころは多くあります。6月23日を慰霊の日として「沖縄全戦没者追悼式典」が毎年行われています。
■ 基本情報
- ・名称: 平和祈念公園
- ・住所:沖縄県糸満市摩文仁545
- ・アクセス:(1)那覇(バスターミナル)→糸満(バスターミナル)約45分
- バス番号:89,33,46番
- (2)乗り継ぎ/糸満(バスターミナル)→玉泉洞線(平和祈念公園下車)約30分
- バス番号:82番
- ・時間:9:00~17:00(季節により17:30)
- ・定休日: 平和祈念資料館 月曜
- ・電話番号: 098-997-2765
- ・料金:公園無料
- 平和祈念資料館 大人300円・子供150円
- 平和祈念堂 大人450円・中高生250円
- ・公式サイトURL: http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/
7.糸満市にも注目
糸満市公設市場
http://yamasannoomochabako.blogspot.jp/2012_07_01_archive.html
糸満漁港と隣接する公設市場。南国のちょっと珍しい魚から沖縄かまぼこ、島豆腐などを扱うお店や食堂、おしゃれなカフェまで並んでいます。第4日曜日(2ヶ月に1度)には手作り自由市「ちむちむ市場」を開催。手作り品やフードブースのほか、ライブやダンスなどイベントブースもあり、盛り上がりを見せています。■ 基本情報
- ・名称: 糸満市公設市場
- ・住所: 沖縄県糸満市糸満989
- ・アクセス:公共交通機関…那覇バスターミナルから89番、糸満市場入口下車すぐ
- 車…那覇空港より国道331号線経由、糸満市役所方面へ車で約35分
- ・営業時間: 6:00~20:00 店舗によって異なります。
- ・定休日: 日曜日
- ・電話番号: 098-840-3100(糸満市観光協会)
- ・料金: 入場無料
- ・参考サイトURL: http://www.tabirai.net/sightseeing/column/0003885.aspx
糸満観光農園
http://filmoffice.ocvb.or.jp/location/nanbu/itoman/128/
広い敷地内には、パークゴルフや乗馬、で南国フルーツいっぱいの熱帯果樹園、パッションフルーツとアセロラを使った「糸満ワイン」の試飲・販売を行うワイン館があり、子供から大人まで楽しめる施設です。南国のクリスマス 平和の祈りをイルミネーションにのせて「いとまんピースフルイルミネーション」
http://awamoriking.ti-da.net/e4178877.html
■ 基本情報
- ・名称: 糸満観光農園
- ・住所: 糸満市摩文仁1018
- ・アクセス:公共交通機関…平和祈念堂入口下車、徒歩約10分
- 車…那覇空港から車で約40分
- ・営業時間: 9:00~18:00(夏季~19:00)
- ・定休日: 無休
- ・電話番号: 098-997-2793
- ・料金: 入場無料
- ・公式サイトURL:http://uchina-farm.jp/
8.実際に訪れた人の声
私は戦争を知らない時代に生まれましたが資料館の展示物をたび涙涙の連続でした。 献花台に家族と一緒に献花させていただきました。資料館の展示物を必ず見てほしい。 この戦争がもたらす悲劇・・・。本当に後世に残してほしい貴重なひめゆりの塔です。 戦争の時代の展示品や戦争で亡くなられた方の直筆の手紙があり
て小学生の息子を連れて行きましたが、彼も平和について考えてくれたと思います。是非訪れて手を合わせて欲しいと思います。
見てきた人たちの多くは、かつて沖縄で何があったのか、その悲惨な歴史に触れるたびに言葉を失いますが、見学すればするほど沖縄に、そして平和に真摯に向き合いながら、真剣にガイドさんの説明に耳を傾ける方々が多く見受けられます。
また、中にはひめゆりの塔の無料駐車場に隣接するレストランで揚げたてのサンダアーギーとブルーシールアイスを食べて、沖縄の旅の思い出にする人もいるようです。
それでも訪れた人々は皆一様に「二度と悲劇を繰り返してはならない」「沖縄戦の惨さを後世に語り継ぐために一度は訪れるべきだ」「今ある平和を大切にしよう」という誓いを新たにして、沖縄を後にしていきます。
1945年6/18夜半、沖縄のひめゆり学徒隊に「解散命令」が出されました。アメリカ軍の圧倒的兵力下にあった沖縄本島南部での絶望的な逃避行。この後数日間で、同学徒の戦争犠牲者のうち多くが、この後数日間のうちに出ています。「アニメひめゆり」 http://t.co/LXCRR87y9h
— よたか堂/kenkaizu (@tuchihannmyoo) 2014, 6月 18
9.嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)
宜野湾市にある嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)は、地元の人には嘉数高地(かかずこうち)とも呼ばれる見晴らしのいい場所です。戦争当時激戦地となった場所ですが、現在はきれいに整備され住民の避難壕や慰霊の塔、 弾痕の塀・トーチカ(戦闘の防御の際に使用する陣地)などが残されています。現在の様子からは、住民の半数以上が亡くなったといわれる当時の米軍と日本軍の激しい戦いを想像するのは少し困難かもしれません。公園には地球儀を模した展望台がありますが、普天間基地や読谷村などを一望することができます。
公園内は慰霊の塔などがあるだけではなく、遊具やベンチなどの設備もあるのでゆっくり過ごしながら、戦争についてあらためて考えてみる機会を持つのもいいかもしれません。
■ 基本情報
- ・名称: 嘉数高台公園
- ・住所: 沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5
- ・アクセス: 那覇空港からバスで50分
- ・参考サイトURL: http://www.jalan.net/kankou/spt_47205ad3350046693/
10.チビチリガマ
米軍が最初に上陸した場所である読谷村(よみたんそん)にあるチビチリガマは、「尻切れ洞窟」を意味する自然洞窟です。戦争当時にここであった出来事は、当事者たちにとっても思い出したくない出来事として長年の間封印されてきましたが、1983年調査が始まりました。戦争当時米軍に追い詰められチビチリガマに逃げ込んだ80余人の人たちが、「米軍の捕虜になり辱めを受けるより自決して死んだほうがいい」と、ガマの中で集団自決をした場所だということがわかったのです。その中には子供も多く含まれていたといいます。
この出来事は当事者たちの間では長い間タブーとなり、話題になることはありませんでした。現在も中にはこわれたままの食器やめがねなど遺品が残っています。入り口近くには地元の人たちにより歴史を考える場所として平和の像が建てられた鎮魂の場所となっています。
■ 基本情報
- ・名称: チビチリガマ
- ・住所: 沖縄県中頭郡読谷村波平1136-2
- ・アクセス: 沖縄バスターミナルから28番または29番のバスで1時間半前後
- ・公式サイトURL: http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/okinawa/senseki/chibichiri.htm
11.旧海軍指令部壕
那覇市の南西に位置するとても見晴らしのいい豊見城岳陵にある戦跡が「旧海軍指令部壕」。今はとてものどかな場所ですが、第二次大戦末期に日本海軍の司令部がおかれ激しい戦闘が続いた場所です。現在戦争を伝える公園としてきれいに整備され、慰霊塔や資料館・ビジターセンターなどで当時の資料や遺品が展示されています。旧海軍指令部壕は日本海軍設の手によって掘られた壕で、戦争当時は450mもの長さがあったとか。戦跡として残すためにそのうち300mが復元され見学が可能になっています。
105段もの階段を降りて地下にもぐっていくと、薄暗い通路と医療室や下士官兵員室・司令官室などがあります。大田實海軍少将が部下と幹部6名が拳銃自決をした部屋や幕僚(ばくりょう)が自決した際の破片のあとが壁に残る箇所もあり、実際に目にすると複雑な気持ちになるかもしれませんが、機会があるなら見ておきたい場所です。
■ 基本情報
- ・名称: 旧海軍指令部壕
- ・住所: 沖縄県豊見城市字豊見城236番地
- ・アクセス: 那覇空港よりタクシーで約15分
- ・営業時間: 8:30~17:30(7月~9月)、8:30~17:00(10月~6月)
- ・定休日: 年中無休
- ・電話番号: 098-850-4055
- ・料金: 一般大人440円、子供220円
- ・公式サイトURL: http://kaigungou.ocvb.or.jp/top.html
12.糸数壕(アブチラガマ)
沖縄では「壕」のことを「ガマ」と呼びます。糸数壕(アブチラガマ)は沖縄本島の南にある南城市にある壕です。元々は、沖縄戦当時の避難のために準備されていた壕だったのですが、戦火が激しくなるにつれてやがて南風原(はえばる)陸軍病院の分室、つまり病院として使用されることになりました。軍医や看護婦、ひめゆり学徒隊が派遣され病院として使われるようになってからは、治療室や手術室、軍医室・井戸やトイレなどが作られた全長270mのガマの中は、数百人の負傷した兵士でいっぱいになったと言います。
現在、ガマの中に実際に入り見学することが可能ですが、事前の予約が必要です。実際に多くの人が苦しみ亡くなった場所を見学するのは勇気が必要かもしれませんが、沖縄戦を知るためには一度は見ておきたい戦跡です。
■ 基本情報
- ・名称: 糸数壕(アブチラガマ)
- ・住所: 沖縄県南城市玉城糸数667-1
- ・アクセス:那覇バスターミナルから[51~百名船越線][53~志喜屋線]で「糸数入口」下車
- ・見学時間: 9:00~17:00
- ・休業日: 年末年始(12/29~1/3)
- ・電話番号: 098-852-6608
- ・料金: 個人見学 大人250円 子供100円 減免対象者50円
- ・公式サイトURL: http://abuchiragama.com/
13.第32軍司令部壕(ダイサンジュウニグンシレイブゴウ)
入り口を見学できるだけなので、戦跡としてはあまり知られていない第32軍司令部壕(ダイサンジュウニグンシレイブゴウ)」。この第32軍司令部壕は、首里城の地下を横断するように掘られている全長1キロにもなる巨大なトンネルで、戦争当時日本軍司令部として使用され、牛島中将以下軍の幹部が撤退するまで立てこもっていた場所です。当時は6つの入り口があり1000人以上の兵士がいたそうですが、現在残っているのは南側の入り口のみ。
守礼門を通り抜けたほぼすべての観光客は、コース通りの正殿へ歩みを進めることがほとんど。左方面にある階段を下りると、この第32軍司令部跡という戦跡に行き着くことなど知らない人も多いかもしれません。華やかな首里城とは対照的な地下に残る戦跡の前に佇み、戦争の意味を考えてみるのもいいかもしれません。
■ 基本情報
- ・名称: 第32軍司令部壕(ダイサンジュウニグンシレイブゴウ)
- ・住所: 沖縄県那覇市首里当蔵町
- ・アクセス: 那覇バスターミナルからバスで30分、モノレール首里駅から徒歩で10分
- ・関連サイトURL: http://www.jalan.net/kankou/spt_47201af2170018863/
素材提供:トリップアドバイザー